【所在地:坂本町3-7】
江戸時代、ここを東海道等五街道の一つ、奥州街道(奥州道中)が通っていた。街道は、江戸(東京)から北上して陸奥国(福島・宮城・岩手・青森の四県)を縦断し、津軽半島の三厩(青森県外ケ浜町)を経て、海路で松前(北海道松前町)に達する。表題の街道跡は、江戸から松前までの街道の一端を担っていたということになる。
吹張町から、「く」の字の坂道を通る街道は、花巻市まなび学園(県立花巻南高校跡)体育館の敷地を通っていた。現在の堀割は、明治十九(一八八六)年、吹張町から一日市町まで新道(国道四号)として開削されたものである。街道の西側には稲荷神社(後の坂本稲荷神社)、南貞庵、後には西光庵(広隆寺の末庵、明治の廃仏毀釈により廃寺)という庵があった。又、瑞興寺が花巻城の本丸から移転され、街道から参道が設けられた。
鍵町(現坂本町)には、八幡・寺林通御代官所(他に豊沢町の裏町、大工町に代官所各一箇所)が置かれ、旅人は通行手形の有無等、厳しく取り調べられた。一日市町には、御仮屋があり、参勤交代時の松前藩主や八戸藩主の本陣が置かれていた。又、付近には、制札場(禁じられていることを書いた札)が、四日町には検断(警察)が置かれていた。城郭の周辺十三箇所には木戸が置かれ、番人が警備上毎夜六時には閉鎖し、旅人の通行を規制した。
-------------------- ≪掲載されている史跡名所≫ --------------------